開けない方がよい。開けてしまったら次の箱は開けない!
心に傷を負って苦しむ方々のお話を伺う医師として開業12年になりました。 その間、常に感じることがありました。
対人関係が崩れる時、見なくてもよいもの、見てはいけないものをみてしまい、そこから疑う心が大きく芽生え、その疑いが次の行動にでてさらに疑いが疑いを大きくしていく。その疑いが最大限になった時、爆発して、ある方はうつに、ある方は暴力に、そしてある方は訴訟となり、長く苦しむことになるようです。 たとえば、相手の携帯をみたことにより、そこにある記録が事実であろうがなかろうが、疑いの対象となり、その疑いがさらなる疑いをよび、どんどんいろいろな方向に波紋を広げる。結果的に破滅を迎えてしまう。
ここに疑いで膨れたパンドラの箱があります。疑う気持ちから、ついつい箱に手をかけて開けてしまう。そこには、疑いを増幅する何か意味するロシア人形(マトリョ―シカ)がありました。マトリョ―シカを一つずつ外して調べてみても、次から次へと同じようなことばかり。マトリョ―シカの隣にはもう1つ小さなパンドラの箱がありました。その中には、もっと違うことを示す情報があるかもしれないと思い、またふたをあける。そこにはまた一回り小さいマトリョ―シカと小さなパンドラの箱。こうして、どんどん深みにはまっていく。
最初の箱を開けてしまうのは、人間の気持ちとしてやむを得ないと思います。でも、悩みが一層深くなるのはその後です。そこにいたマトリョ―シカを外していっても同じ疑念しかわかなかったとき、二つ目の箱を開けないようにする。開けたくなるのはわかります。でもそこを我慢してそれ以上の深追いをやめること。これができると苦しみの深い淵までは落ちないように思います。目をつむり考えない、考えない、そんなトライをしてみるといいと思います。
人間はみな人に触れられたくないものを抱えているはずです。そこをとことん追求すれば その向こうに何があるのか。ある程度グレーなまま残しておくことも必要な場合があるように思えてなりません。ここでも60点合格主義です。
一度パンドラの箱をあけてマトリョ―シカを外してみたら、次のパンドラの箱を開けない方が良いこともあるように思えてなりません。一度開けてしまった箱を閉じてみませんか。 新しい年を迎えるにあたって、少しでも心と気持ちを乱さないようにできたらよいと願ってやみません。
皆さん、よい年をお迎えください!
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それゆけ アンパンマン!の作詞者やなせたかしさんのご訃報を聞き、またあらためてアンパンマンのマーチを耳にしました。
インターネットから歌詞をひろわせていただき、よくよんでみて驚きました。
いままで何度もこのコラムでも発信してきた、今を生きる! 何のために生きる!ということを、 我々が子供の頃から、やなせさんが世の中に発信していました。小さい時この曲を聴くと、なにか元気がでたものでした。今この曲を聴くと、一番の「今を生きる ことで、 熱い こころ 燃える」、二番の「なにをして よろこぶ、わからないまま おわる。 そんなのは いやだ!忘れないで 夢を」三番の「時は はやく すぎる、光る星は 消える。 だから 君は いくんだ」が心に響きます。こんなに生きることにエールをこめて、子供たちの耳に届けていらっしゃった 作詞家やなせさんに敬意を表するとともに、これからは 及ばずながら私たち自身が発信していかなくてはならないと思います。
やなせたかしさんのご冥福を、あらためて心よりお祈り申し上げます。
インターネットからダウンロードした歌詞を載せさせていただきました。皆さん、ゆっくりと詠んでみませんか?
アンパンマンのマーチ
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ胸の傷がいたんでも
なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのは いやだ!
今を生きる ことで 熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため
なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため
時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな 敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため
作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし 編曲:大谷和夫 歌:ドリーミング
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9月に引き続き、今月もあちこちで大きな自然災害が起きています。
単なる異常気象によるもので片づけてしまってよいものでしょうか? 日本では311以来、異常気象の原因としていろんなことがとりざたされています。地球温暖化もグローバルな見地から見ると異常気象の原因でしょう。
異常気象は人間の生み出したものである可能性はないか、いろんなところで有識者によって問題提起されています。しかし、私はもっと足元の問題を提起したいと思います。
日常の生活ごみの出し方です。わがクリニックでも毎日たくさんのごみが出て、クリニック裏のごみ回収日には出しています。そこはマンションの住人の皆さんも生活ごみを出している場所です。残念なことに、どこにでもあることでしょうが、生ごみの日には、生卵から様々な食べ散らかしが散乱(カラスたちの仕業もあるのでしょうが)。中には燃えない不燃物まで混在しているところを見かけます。当然、ルール違反のラベルを貼られ回収されません。そのまま数週間放置され、またそこに次のごみが出されていく。回収されなかったものはまだしも、生ごみに不燃物、これがちりも積もればとなり、大気を汚し、地球温暖化につながってしまうと思います。
我々が子供の頃、長野の田舎でみていた、“東京の光化学スモック警報発令”のTVニュースは、もはや他人事でなく自分たちの問題です。中国などでは、1メートル先も見えないような大気汚染が報じられています。それがまた偏西風にのって日本まできていることを考えると、小さなゴミの出し方一つに気を配らなければならないことを、自然は我々に教えてくれているように思います。
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このところに自然の異常には目を疑うことがたくさんあります。台風、竜巻etc.など、今までの日本では考えられなかった現象です。専門家の間では、地球の温暖など色々なことが原因としていますが、本当にそうでしょうか?
よく言われることですが、私はやはり今までの人の生き方に対して天の戒めではないかと思います。やりたい放題にやってきたことがどのくらいあったのか、ここで立ち止まって考え直さなくてはいけない時である、そのことを知らされているようでなりません。
エネルギー問題から始まって、コンピュータにばかり依存している今、もっと自然にもどり、足元を見直していかなければならないように強く思います。3.11の大震災以降、一時節電に世の中ははしりました。でも気が付くとまた今は元に戻ってしまったように思います。紙の消費もなるべく節約できるものをしていけば、少しでも森林伐採は減るのではないでしょうか?
思わぬ災害に巻き込まれ、犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
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最近外来で、どうして、私だけ、こんなに他の人から冷たくされて、悪口ばかり言われるのでしょうか、あの人たちの顔も見たくない、休職したい、という相談をたくさん受けます。
相談に来られる方々に共通の点があるように思います。皆さん、目に元気がありません。時に目から威嚇的なもの、その反対の深い悲しみを感じます。外来に来られた時、お気持ちが落ち込んでいるので、目に活気がないのは当然です。でも何かが違います。
先月のコラムで私は言葉と目のことを書きました。私は他人がご自分にそのような言動にでてきたとき、いつも一つだけ提案をしています。男女にかかわらず、毎日鏡の前に座って、ご自分の顔を見ること。そして自分の表情をチェックしてみてください。肌がきれいとか、目がはれているとかそのようなことを見るのではありません。もし今日、自分が、鏡の前にいる自分と話し共にいるとしたら、本当に一緒にいたいか? どんな言葉をかけたくなるか? どんな態度をとりそうか?
鏡の前に座って、口元を引き上げスマイルをつくってみてください。意外と(?)いい顔になります。自分でも思わず話しかけてあげたくなる自分になっていることに気づきます。自分が嫌になっている時に鏡の前になんか座れない、座りたくない、と思うかもしれませんが、薬を飲む以上に効果があるかもしれません。是非、試してみてください。
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真夏の暑い日が続いています。日本は古来から、この時期になると肝試しをはじめ、幽霊談がたくさん出てきます。私は浮かばれなかった方々のお気持ちは、確かにこの世とあちらの世の間に残っていることがあると思っています。色々な差し障りを起こしている場合もあると思います。実際にそのような現象に出あってしまった方は、本当に恐怖におびえたお気持ちを感じたことがあると思います。でもその場合には、勇気を出して、あなたはもうこの世の人ではないよ!あちらへ帰りなさい!と大きな声で言ってみてください。ある程度の浄化にはなるようです。
さて、幽霊も怖いですが、今を生きている我々にとって一番怖いのは何かと私は常々考えています。ひょっとして、本当に怖いのは幽霊ではなく、生身の人の心の変調と恐れの気持ちではないかと思います。人の持つ様々な感情、時としてそれが暴発して、色々な問題を生じさせる。不安定な、人の心の変調とそれに突き動かされてしまう結果こそが、この世で一番怖いものなのではないかと思います。そして、何か目の前を恐れ、第一歩が踏み出せないでいること、これも怖いものであると思います。
日々の診療の中で感じることですが、どうして、こうも人の心はゆがんで絡み合ってしまうのか、それはやはり、発する言葉と目の冷たさではないかと思います。少なくとも言葉づかいには気を付けて行きたいものです。
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沢山の方々がクリニックにおいでになって下さっています。私も含めて、クリニック スタッフは、患者様、そのご家族様から、日々たくさんのことを気づかされています。
その一つに、電話でのやりとりがあります。一つのことについてお話をする時、話し方の抑揚、顔つきにより、その印象が大きく変わってしまうことは当然です。しかし、この当然が当然としてわからずに、コミュニケーションがうまくいかないことがしばしば生じてしまうのは何故でしょうか?
私はそれこそが人間力、その人間の大きさ、もっと言えばオーラなのではないかと思っています。円熟の域に達した方が優しい眼差しで一言いっただけで、ふあ~っと!そのお気持ちが伝わってくるのは、その方の目に、見えない大きな力がこもっているからなのではないかと感じる時があります。荒れ狂う議論や猛者たちを静かにさせてしまう人の持つ力、それがその方々の持つ力であると思います。一方、それを受け止める方にも、キャッチする器がなくてはいけません。感動するという感受性でしょうか?鈍感でなく鋭敏でなくてはいけないと思います。
目と目で通ずる日本人の感性にはどうしても、人間力と器の両方が必要であると思います。
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認知症を患われてしまった方は、何もわからない。恍惚の人になってしまっているから。 そうお考えになられている方が、多くいらっしゃいませんでしょうか? 私は、この考え方は間違っていると思っています。
認知症の治療薬にパッチ剤(貼る薬)があります。最近では、喘息やパーキンソン治療薬にもパッチ剤が世に出てきています。今まで飲み薬だけを処方されてきた認知症の方に、このようなパッチ剤を処方してみると、驚くべきことが起きています。
「今まで私に触ってもくれなかったうちの嫁が、最近背中にシップ(パッチ剤のこと)を貼ってくれる。」「息子が朝、必ずシップを貼りながら肩を揉んでいってくれる」etc. もの忘れが強く表情がなかったご高齢者が、ニコニコしながら、こんなことをおっしゃってくれるようになった場面を何度も見るようになりました。
認知症を発症したとしても、誰も目を向けてくれなくなってはとても淋しいものです。平原綾香さんのジュピターという楽曲の中に「私のこの両手で何ができるの・・・」というくだりがあります。私たちは、たとえばパッチ剤をはったり、アロマセラピーやタクテイール・ケアという手法を用いてご高齢者に手を当てることを積極的に行い、もっとコミュニケーションをもつことが必要なのかもしれません。手当てすること、それはまた医療の原点でもあります。
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新しい学期が始まりました。小学校から大学まで、この時期は新しい空気に満ち溢れていることでしょう。ただ最近、気になっていることがあります。既に色々なところで、言われていることですが仲間同士、友人同士の生のコミュニケーションが不足していることです。
最近では、スマホをはじめ携帯情報時代です。どちらを向いても、携帯やスマホを手にしている人ばかりです。おそらく、今の時代のコミュニケーションはこの便利な手段を用いて全てが済んでしまっているのでしょう。
我々の学生時代には、麻雀(マージャン)卓を囲んで、仲間同士で結構、話をしました。時には生意気にも、わずかながら賭けて、熱くなりすぎて、また仲を戻し、その都度仲間というものを考えました。しかしこれは皆、face to faceで顔を突き合わせ、その場の温度を肌で感じていました。
コミュニケ-ションの技術は大進歩を遂げても、今の若者のコミュニケーションは、直接、場の温度を感じないものになりすぎていることを危惧します。もっと手書きの手紙を書き、直接会って、目をみて、その場の空気と温度を肌で感じながらのコミュニケーションを新学期にあたり期待したいものです。
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東京の桜は、今年はいつになく早く咲き誇り、あっという間に満開になりました。花曇りの空のもとで、柔らかな春を演出してくれるピンクの景色、まだまだヒンヤリとした夜気の中で、凛として咲いている夜桜、いずれも日本を感じさせてくれます。留学していたころ、アメリカのポトマック河畔でみていた桜は何か日本人であることを思い起こしてくれました。イギリスのバーミンガムでは、桜が見られず何か春が淋しいものでした。
春は新しい生活へのスタートと今までの生活への終止符をうつ両面の時ですね。ほとんどの方が、現在では、これから始まる新しい生活に胸を膨らませ希望に満ち溢れていらっしゃると思います。きっと胸の高鳴りを感じておられるでしょう。しかし、折角新しい道が開け、方向性ができても今一歩踏み切れない、何とも言えない怖さを感じていらっしゃる方はおられませんか?きっと新しい変化への一歩が、怖くて踏み出せないで苦しくなり、眠れなくなり、どうしていいのかわからなくなっている方もいらっしゃると思います。走り始める前、何が起きるかわからない夜明け前の怖さです。
一方では長年頑張ってきた方が、その生活を変えて方向転換する春でもありますね。卒業、定年退職はもちろんのこと転職など、今までの生活にストップする時です。いままで十分にやってきた、そしてその内容と時間に満足してこの辺でもういい!と思って止められる方はとても幸せではないかと思います。しかしそのように思える方はほんの一握りしかおられないように思えます。そんな時、やめたらどうなってしまうかわからない不安にかられて苦しくなってしまう方が、これまた少なからずおられるのではないかと思います。
最初の一歩が踏み出せないで震えること、たちどまるとこれからどうなるかわからず不安に駆られること、人間だれでもあるもののようです。小学生の時、はじめて跳び箱を飛べた時、なんだ!簡単だったんだ!!と思えたように、まず、一歩、新しい環境に飛び出してみましょう。きっと簡単だったと笑えるでしょう。そういう僕も、仕事を止められず、今日も駆け回っていました。
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先日、ある仏教僧にいろいろと伺う機会がありました。
その時、手のひらの意味、合掌の意味について、ハッとするお話がありましたのでご紹介したいと思います。
掌という漢字の読み方には、「てのひら」、「ショウ」、そして 「たなごころ」の3種類があります。三番目の「たなごころ」とは、「手の心」からきています。手のひらは人の心を表しています。左の手は自分の心、右の手は仏様の御こころ。ひとと人が手を合わせれば心が通ずるはずです。もろ手を合わせれば仏様と自分の心がつながります。手と手をとりあって、手のひらのしわを合わせれば、「しあわせ」(幸せ)です。それでは手を合わすことの反対、手をそらすとはどういうことでしょうか? 手のひらを閉じること、そう、グー・チョキ・パーのグーをつくること、つまりゲンコツをつくることです。そうすると、心が通じる握手の反対に、ゲンコツとゲンコツのぶつかりあい、つまり、いがみ合いが始まります。ゲンコツの一番でっぱった関節の部分、節(ふし)の部分があわさりあうと、どうなります?ふしあわせ(不幸せ)になるのです。
昨今、アルジェリア事件や、グアムでの不幸な殺人などのあまりにも目を背けたい事件が多く嫌になります。そして身近の病気を見ても、うつ病や認知症、私はつらい現場を多く目にしています。みんな心と心の通い合いがもっと必要なのではないかと思います。日本人には、握手やハグする習慣がありません。でも我々も、もう少しスキンシップが必要であると思います。恋人同士、夫婦間だけでなく、ご高齢者へとのタッチも必要ではないでしょうか?
“手当て”“手をかざす”という、治療の技は宗教を超えて大昔からあったと思います。手のひらから出るパワーとは、ひょっとしたらこの最も基本的な治療手段に通じる原点であったのかもしれません。
合掌。
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新しい幕開けです。皆さんどんな正月をお過ごしでしたか?
たくさんのつらいこと、苦しいことがあれば、また嬉しいことに出会った時の感動はひとしおです。闇の深さが深ければ深いほど、差し込む一条の光の輝きを強く感じます。
苦しみの中では、もがけばもがくほど、苦しくなってしまいます。落ち込んでいる時、悲しいみに沈んでしまったときは、陽がまた昇るまで、じっとしていましょう。陽はまた必ず昇ります。
私もたくさんの悩み抱え、苦しみを経験してきました。自業自得の帰結であったこともありました。また人に騙されてしまった結果もありました。こう見えても、今も悩んでいることが私にも多くあります。でも私がここにいて、少しでも闇を輝かせることができるよう、今年は額の光を増していきたいと、気持ちを新たにしています。
自分と自分たちで、今のこの暗い世界を変えていく気概をもって、皆さんともによい時代を創っていきましょう!! 今年もよろしくお願いいたします。
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