院長コラム

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Vol.103 2011/12/15

 昨年末に父が白血病であることがわかり、このコラムにも書きました。この一年、闘病しながらでしたが何とかここまでくることができました。

 私は医者として、いままでに何度となく、ご家族とともに、人の人生の終焉の状態を見守ってきました。しかし、自分が患者の家族となり主治医から病に蝕まれていく親の状態を聞き、何もできないでいる自分に歯がゆさと未熟さを感じています。

 先日も病床で何やらうわごという父の言葉を耳にしました。父が若かったころのことのようです。いつの間にか痩せ細った足。幼き頃、父からくらった痛いげんこつ。この細くなった腕に面影すら見えません。親がいつの間にか老いていたことに今更ながら気づかされた時でした。

 医師・医学者としての自分と、父の息子としての自分のはざまにいて、今何ができるか、悩んでいるのが本当のところです。元旦に満89歳を迎える父の傍で年を越しそうです。 

 

Vol.102 2011/11/15
11月14日

 昨日11月14日をもって、クリニック満10歳を迎えました。当時は現クリニックのすぐ近くに、小さなスペースをお借りして開院しました。そして四年前に現クリニックに移転してきました。

 10年前の開院の日には、労災病院で私が担当していた方々がたくさん来てくださいました。あれからちょうど10年。労災病院の患者さんはもとより、大森を中心とした新しい方々との出会いが多くありました。

 今の私は、純粋な脳外科から少しシフトした(?)、心療内科・精神科的な心の診療と認知症の治療に力を傾けています。時とともに、薬と医療技術は変わります。しかしそれでも私の中では、変わらないものが一つあります。それは心に迫る医療が施せる、またいつも皆さんの近くにいる(侍る:はべる)医師、主侍医であることです。

 11年目の初日に内観したままを書いてみました。これからもがんばりたいと思います。

Vol.101 2011/10/15
宇宙から見たオーロラ

 先日NHKの特集で、日本人宇宙飛行士が、宇宙から見たオーロラの映像を送っていました。大空と大地の果てに、という松山千春さんの歌がありますが、まさにそこにオーロラがあり、緑色光を出しながら動いている姿は、何かの存在を感じざるを得ませんでした。

 その下の地球では、たくさんの悩みと苦しみを抱えて我々が生活していることを考えると、このオーロラはその人間たちをいつも見下ろしている特別な存在ではと思えてしまう不思議な光景です。

 宇宙の果てから、スーッと舞い降りてきた魂が地球上で人間の体を借りて生活しているといわれても、地球上ではなかなか実感できないのが事実です。でも宇宙からこのように見たとき、なにか神の目から常に見られている地球が感じられ、そのうえで行動する我々にも神の意志が投げかけられているような気がしました。

 宇宙の尺度からみると、人の一生は本当に一瞬です。澄んだ秋の夜空をそんな気持ちで見上げています。

Vol.100 2011/9/15
一通の投書に思う

 9月16日の東京電力の節電目標達成の報がマスコミに流れた翌日17日に、「東電から節電解除が発表されたのに、クリニックトイレのジェットタオルが、まだ使えないのはおかしい。床がぬれ、不潔。病院なのにおかしい」という旨の投書をいただきました。

 はっきり言って、私は唖然とするとともにがっかりしました。そもそも、我々は今回の震災から、何を学んだのか、エネルギーの使い過ぎも反省すべきではなかったのかと、あの震災直後のこのコラムにも書きました。トイレで手をふくのは、病院側のジェットタオルでなく、本来ご自身が持参するハンケチなどで手をふくのがふつうのことと、小学生以来教わってきたのではないかと思います。これで手洗い後のトイレの床は、ある程度ぬれないで済むと思います。

 私たちはやはり、今までの高度経済成長後の繁栄をここで見直すべきであると思います。20年前にバブルがはじけ、少し前にリーマンショック。そしてここにきて大地震に超円高、相次ぐ水害。なるべくシンプルに生きてみることを目指してみると、肩の荷がスーっと抜け、楽になります。

 高血圧、うつ、考えてみれば、対人関係での悩みもまた、お互いの気持ちの突っ張り合いから来ていることに気が付きませんか?

 シンプルに。シンプルに。皆さん、見直してみましょう。

Vol.99 2011/8/15
親による幼児虐待死亡事件に思う

 昨今、物騒な事件が続いていることはご存知の通りです。表題のような痛ましい事件がまた続けて起きてしまいました。一つは里子をDVにて死亡させた事件。日本の現在の里子制度は、出産の瞬間から立会い、そこで我が子として天から授かり親子となるシステムです。生まれた瞬間から、里親はおなかを痛めなかっただけで、その子がどんなに障害を負っていたとしても、選り好みは許されず、自分の子供として育て上げなくてはなりません。この事件は、いろいろ事情がおありでしたことは推察できますが、虐待の跡があったとか。実に腹立たしい状態です。他には、実の幼児を餓死させた事件がありました。病理解剖の結果、かわいそうにも腸の中からはおむつの断片と思われる紙切れが出てきたそうです。

 平成18年1月から20年3月にかけての統計では、日本の0歳児DV死は実は139件ありました。そのうち0か月が26人もいました。婦人科の先生方がその原因を考えたところ、その母親の中には妊婦健診も受けず、妊娠時から母としての子への慈しみの情を育てる気持ちと経済的ゆとりがなかった人たちだった可能性もその一因であるとわかりました。

 子供が騒ぐから親として怒鳴って何が悪い。時には殴ったって、いいではないか!それが教育だ!!と言い切る親もおられます。ごもっともです。しかし、以前にもこのコラムにも書いたように、怒ると叱るは違います。叱るは教育的言葉で言い聞かせながら諭すこと、怒るはただ感情的に怒鳴ってしまうことです。電車の中で子供が走っても平気でいる親、電車のシートに土足で子供が立ちあがってもいても何も言わない親。他人が注意しようものなら逆切れする親。そのような親は、そのまた親の教育自体が、叱ると怒ることの違いをよく認識されていなかったのではないかと思います。

 子供を思う気持ちは、人だけではなく動物はみな共通なものであると思います。今の人の一部には動物以下のヒトがいたというだけなのでしょうか? 私たち親は、叱ると怒ることの違いをしっかり認識して、子供を慈しみ、たくさんの愛情を注ぎ、よく語りかけてその子を育てていかなければならないと思います。

Vol.98 2011/7/15
お金は使う方が難しい!

 お金持ちになりたい、お金が欲しい、これは人間だれしもがもつ基本的な欲求です。

普通は、頑張ってお金を貯めようとします。そして念願の預金が膨らんだり、ある時は宝くじが当たってお金持ちになれば、その方はハッピーです。でも、本当に難しいのは、そこからだと思います。

 お金をどう使うのか、使えるか。人はここでその人の本質を見られてしまうような気がしてなりません。お金があるのにすごくケチな人。よくこの方々は、お金を貯めるまでにすごく苦労されてきたので、お金の大切さを知っておられる故に、なかなか使えない、と言われます。お金がなくて使えないのとは少し違うようです。

 生きたお金を、生きている時に使いたいものです。墓場までお金を持って行って埋めてもらっても、何の価値もありません。また、お金をたくさん残しても、相続という醜い争いの源となるばかりです。ではどうしたらよいか? 生きた金の使い方、自分の活動世代の時に使うこと、これに尽きるのではないかと思います。自分のため、世の中のために少しでも生きたお金の使い方をしたいものです。

 本当に難しい問題だと思いませんか?たかがお金、されどお金です。

Vol.109 2012/6/15
当院の診察待ち時間制度の変更に想う 受付順番制への移行

 開業してから丁度10年、移転してから間もなく4年になります。この間、当院の診療待ち時間に関して、待ち時間が長すぎる、どうにかならないかというクレームをたくさんいただきました。その都度、私は投書箱への返答欄に、ただいま検討しております、もう少しお待ちくださいと、申し上げてきました。 

 今回は、その方々にもお返事いたします! 当院は来る7月1日から、受付順番制に移行します。簡単にいえば、クリニックにおみえになられ、受付をされた順の診察になります。

 私もこの問題では、非常に悩みました。白髪も増えました。スタッフとも激論を交わしました。スタッフはこの問題を解決するには、「とりあえず受付順という単純明快な方法を行うべきである」との総意を伝えてきました。私からは逆に、「この方法をやると、早いもの順ですので、人間の心理として、ドアが開く前から行列ができてしまう(?)のではないか。天候の悪い日にも列をなしてお待たせてしまうのはよくない」と危惧される胸の内を伝へました。スタッフは、「そのような天候の日の朝・夕にはわざわざ来院しない、日時をずらす」と言いました。また、「自分の家族、おじいちゃん、おばあちゃんが受診することになっても、このあり方でいい」とのことでした。

 開院以来、私のクリニックは予約制ではありませんでした。いつでも、どなたでも、おみえになられた方は必ず診察するというスタンスをとってきました。しかし当初から優先枠なるものが存在しました。非常に具合の悪い方を、他の方より優先してまず私が診察し、速やかに点滴や次の検査・治療にまわすために、“先に診る”ための時間枠でした。しかしいつの間にか、クリニックの受付スタッフも、次回の受診の都合をおっしゃる患者さんの順番を入れていくようになってしまい、それがかえって患者さんからは、予約できる、予約したと誤解されるようになり、結果的には、「自分は予約をしていたのにどうして1時間も1.5時間も待たせるのだ!」というクレームにつながったと考えられました。優先枠の呼び方は、当院が予約制であるとの誤解が大きくなる度に、目安時間、受付優先枠などと名称を変えてきました。しかし、いつの間にか予約制であると勘違いをされる方々が多くなり、現在でも、次の予約を入れたい、予約を変更したい、とのお申し込みをされる方々が後を絶たない状態になってしまいました。

 あるスタッフからは、「現在ではもはや、患者さんには予約ではないことはわかってもらっており、問題は待ち時間の長さだ」という意見も出てきています。しかし、心に迫る医療を信条としている私は、しっかり診て、しっかり眼を見てお話をする以上、この長い待ち時間ということを今回問題にするつもりはありません。今回はあくまでも、診察の順番についてのみに、敢えて問題を絞り、その解決をはかりたいと思います。

 暑い日、寒い日、雨の日、風の日、認知症の方、ご高齢の方をドアの外でお待たせするのは忍びないというのが私の本音です。私が脳を病んだ自分の親を受診させるならば、やはりある程度の目安時間を示してもらい、そこから2時間待つというのであれば、まだ受診しやすいと思います。好きな時に受診してもいいと言われても、行ってから順番待ちで2時間待つのか3時間半待つのかわからないようでは余計不安と不満を増してしまうような気がしてなりません。しかし、開院10年目の今年、たくさんのクレームをいただき、スタッフからも総意の提言があった以上、この“来た順”という受付順番制を、とりあえずやってみたらよいのではないかとの決心に至りました。受付をされてから、これからも平均1~2時間お待ちいただく可能性はありますが、“順番についての公平性”をできる限りはかれればと思っています。

 本年7月1日から約半年位を目途に実施し、また皆さんのお声にも耳を傾けながら、それぞれの問題点解決を試みて参りたいと思います。 院長コラムに私に率直な気持ちとして載せました。 どうか、この制度への移行に皆様のご理解を賜りたいと存じます。

Vol.96 2011/5/15
ぼやかない

 いろんなことに悩み落ち込んで涙を流しながら受診される方が男女を問わず増えています。皆さんは、職場での対人関係、overworkなどに苦しみ、心に重い石を一つずつ重ね上げてしまい、心が悲鳴をあげてしまっているのです。そのような時には、その石を一つずつ逆に取りのぞいていくこと、そしてその悪循環を断ち切ることをしていかなくてはなりません。

 しかし、そのトラブルが何故生じてしまうのか、我々は常に考え直す必要があるのではないかと思います。ほとんどの場合、現状をぼやいて、人と比べ、挙句の果てに人のせいにする。その対象とされた人は、とても嫌な気持ちになり、同じことをやり返すか、そのぼやき人(“ジン”)に感化され同じ方向を向いてしまう(感染)ことから、だんだん問題が重くなっていくのではなかと思います。自分がこうありたいと思い、人にどうであって欲しいかと想うこと、それが一番大事なことであると思います。人の行動・言動は自らの想いの反射鏡であると思わなければいけないと思います。

 苦しんでいる中でこのように思えるわけがない!先生は何を言っているのか!!とおっしゃる方が多いと思います。私自身も日常で思い当たることがたくさんあります。小さなクリニックでありながら、スタッフと私の関係、スタッフ同士の関係を見ていても、私自身、落ち込むことがたくさんあるのです。まず、ぼやかない。現状をみて、ぼやいている時間、文句を言っている時間、賃金が少ないとぼやいている時間があったらまず自分から動くこと。あちこちに、ぼやき虫をばらまかない。周りの純粋な免疫の少ない人はすぐ感染してしまうか、より抵抗する雰囲気を増悪させてしまいます。そして、自分はこうありたい、相手にもこうってほしいというコミュニケーションがかけていることに気づかなくてはいけません。言葉を交わせる距離にいるのに、メモだけの書き置きをしているだけでは、全く心のコミュニケーションになっていません。メモだけでは肝心な時、自分はこうありたいという気持ちが伝わりません。

 職場で、家庭で、苦しい状況になってしまった時には、まず、ボヤかない! そして、音霊の原点である言葉を通して、相手に自分の気持ちを伝へ、こうあってほしいと言えることが現状治療の第一歩であるのです。

Vol.95 2011/4/15
ノブレス オブリュージュ

 みなさん、突然のこの片仮名言葉、聞き覚えありますか? これはイギリスのダイアナ妃が亡くなるまで、よく口にしていた言葉です。その意味するところは「地位あるものこそが、社会貢献しなければならない」とのことです。

 大震災から一カ月以上たって、いろいろな復興が待たれています。クリニックでは、スタッフの提案で、被災者に贈る衣類などの収集が始まりました。スタッフからの温かい気持ちの表れがとても嬉しく感じています。

 国の行っている復興計画にはよくわからないところがたくさんあり、歯がゆさを感ずるところが多くあるように思われます。その原因には、国会の偉い先生たちの党派の争い、派閥の争いにあるように思います。今、この時こそ、そんな争いはしばらく休戦にして、被災地にとって、いま大事なことは何であるのか!、党もなく派閥もなく大同団結してやるべきであると国会議員に提言したいと思います。行うべき目の前の政策の実行の後、正々堂々と選挙で勝負しようと宣言した方が我々国民には潔くみえます。また、大統領が変わったら各省庁のスタッフ(官僚)も、民主党から共和党に、共和党から民主党に全て変わるアメリカのように、霞が関の官僚も政権党派一色にして、政権与党がかわれば総入れ替え変えするようにすべきであると思います。そうすれば、政権与党の変換とともに政策原案を作成する省庁のスタッフが変わり、斬新な政策ができると思いますし、また定年まで首にならないという国家公務員の地位安堵がなくなり、官僚にも真剣さが増すと思います。

 ノブレス オブリュージュ! Princess Dianaは日本のこの国情をあの大きな目をうつろにして、またつぶやいているでしょう。

Vol.94 2011/3/15
被災された方々への祈り  今われわれにできること

この度の大震災に被災された方々に心からお見舞いを申し上げますとともに、ご逝去された方々のご冥福を心からお祈り申しあげます。

 クリニックにも震災にあわれた方やそのご家族がおみえになり薬不足を訴えておられます。その度に震災を身近に感じます。我々に何ができるのか、日本中の方々が考え始めていらっしゃいます。今、私も医療者として考えていること、ひとりの日本人として考えていることがあります。

 医療者としては、東北の方々に少しでも薬をまわして差し上げたいと思います。日々の診療でも、皆さまに一回の処方を一カ月分の処方から2週間分の処方をお願いしております。東北の病院は、薬もなく高血圧、糖尿病、甲状腺疾患が日に日に悪化していらっしゃる方が増えているとの情報が入っています。とても小さいことかもしれませんが皆さん是非ご協力をお願い致します。

 ひとりの日本人としては、やはり電気・ガソリンの節約、必要以上の買い占めはやめようと強く思います。クリニックもできるだけの節電を心がけています。往診車のガソリンがなくなってしまい、私も昼間は近隣の方への在宅診療は徒歩や自転車で動いています。市街を歩くとだいぶ世の中も節電されてきていると思いますが、まだまだ節電できるところがあるのではないかと思います。ライトが光々としているところを見ると何をしておられるのか思わず覗き込んでしまいます。ガソリン不足も深刻になっている今、ハワイや海外に向かう旅行も可能な限り皆で控えて、航空会社もその分使用されるガソリンを被災地区にまわしてあげるなどしてみてはどうかと考えます。

 買い占めの問題も深刻ですね。トイレットペーパーも、足りない今は、例えば12個買い占めるところを半分にして、残りは皆で被災地にまわしてあげるようにしてあげたらどうでしょうか?自分たちも、もちろんトイレットペーパーは必要です。でも自分たちがとりあえず足りていれば、被災地でペーパーもなく用を足すときに困っている方たちのことを思い浮かべてあげていただきたいと思います。

桂華先生 活花
(診察室)

 今まで我々は、飽食の時代に育ち何一つ不自由なく育ててもらってきました。戦後の苦難を乗り越えてこられたご高齢の方がおっしゃっていた言葉が耳に残っています。「戦後苦労したから、豊かなものにふれてあまりにも欲張ってきてしまった。またあの時のことを思い出して、一つひとつのものに感謝して生きなくては・・・。」  この大天災にいま私たちは何を学び、何に気づかなくてはならないのでしょうか? まさに“たましいの気づき”を求められているのではないのでしょうか? 質素倹約、質実剛健、日本人の頑張りの原点ではないかと思います。

このような時だからこそ、皆さんでがんばりましょう!

被災者のみなさんがんばって!!

Vol.93 2011/2/15
医療における水先案内人

先日、私の患者さんである疾患が疑われ大学病院に紹介した方から連絡がありました。大学病院でいろいろと検査をした結果、その検査結果からでは良性・悪性の判別はもとより、診断名もつかず、手術するかどうかはご自分の判断で決めてくださいと言われたとのこと。後日、写真を返してもらいに外来に行き、診断もつかないまま手術を自分で決めてくださいと言われても決められない、といったところ、外来ナースにも以下のように言われてしまったとのことです。その時のお気持ちを表したその方からのメールの内容です。

 

手術をするか、しないかの選択を
患者の決定に任せるのが不安ですと、
看護師の方に話しましたら
「患者さんに聞くのは当然です。手術は患者さんのものですから」と

勿論、手術を受けるか受けないかは
最終段階では患者の選択になりますが
病名もわからない、
説明もつかないまま、 最初から「お任せします」と丸投げされると
不安で、お医者様と患者の信用関係が成り立たないと
治療も望ましい結果には繋がらないと思います。

 

 私は、開業以来、医療における水先案内人でありたいと願ってきました。患者さんを最先端の高次医療機関にご紹介するのは日常のことです。私が日々思い描いている“主侍医”とは、私のところに通院されている時はもちろん、他院に紹介後も、そこで悩まれたらいつでもまた相談に来ていただいていいですよというものです。一度紹介し、私のところから離れてしまうと、この方のように1人で悩まれてしまう場合が多いようです。現在の多種多様の治療方法がある以上、悩んでしまうのは当然であると思います。その時点で、どの方向性の医療がいいのか、患者さんの傍にいていつも一緒に考え相談していく水先案内人としての開業医の存在は、今までもこれからも絶対に必要であると考えます。

Vol.92 2011/1/18
ファウスト  ~ゲーテ作~

 皆さん、新年がスタートしました。街にも静かに新たな活気が戻ってきているのを感じます。

 新年にかけて、ドイツの哲学者ゲーテの作品、ファウストを読みました。この本は学生時代から、受験勉強の文学史で名前だけは知っていましたが、なんだか難しそうで手が出ませんでした。読みやすい訳本が出版されるようになってやっと今回手が出ました。読み終わったあと、18世紀後半の人が考え、疑問に思っていたことと、21世紀を生きる私たちの疑問がほぼ同じであったことに驚きました。

 物語の中のファウスト博士は、医学、神学、法学、哲学などの学問を究めたドクトルであり、大学教授に就任しました。しかし、歳をとったファウストの内面は、常に矛盾に満ちていました。何のためにこれほどまで学問を積んで学ばなければならなかったのか?周囲が楽しく遊んでいた若かりし時も勉強し、家庭などもつ余裕もなく全ての時間を学問につぎ込んできた自分が分からなくなっていました。そこに、『人生、やり直したくないか?もう一度若さを与えてやろう、なんでもファウストの言いつけは聞く』という悪魔が現れ、ファウストは悪魔の申し出をのんでしまった。交換条件は、ファウストがこの世を去る時、その魂であった。 その後、ファウストは若い肉体を与えられ、恋愛をするも、結果的にその女性と家族を全員、死に追いやってしまい、再び深く悩むことになった。そして、時の国王に預言者的なアプロ―チをしたことにより、国同士の争いに巻き込まれてしまいました。失意の中で、ファウストは現れた不足、罪、苦難、不安の美しい悪霊に出逢いますが、不足を遠ざけ苦難を恐れぬ勇気と、罪にとらわれない強き信念をもってそれぞれの悪霊を退けました。しかし不安の悪霊に、『最初の悪魔との、若返りの魔法の時間もまもなく終わり、捨てたはずの元のむなしい時が戻ってくる。それがあなたの不安。不安という私を退けることはできない。あなたは捨てた時の代償として両目の光を失うでしょう。その時あなたは真の闇を知る』と言われた時、ファウストは、悪魔の次は悪霊か!と、最初はけして認めませんでした。しかし次第に、多くの人と交わり誰かを愛しあえたとしても、結局、人間は孤独である。あてのない真っ暗闇の中で、皆、孤独の苦しさに耐えられず、自分の生きているという存在を確かめたくて、だれかとのつながりを求める。人はだれもが無限の闇におびえ、不安をうち消す光を求めて星を生み、命を育んだ。人のたましいを、裁きと救済だけに仕向ける傲慢な神など存在しない。この宇宙に神のためだけの聖域もないのだ。人は先の見えない暗闇をさまよう孤独な旅人であるが、幼子のように怯えと永遠の不安を抱えながらも、力強く歩いていこう。それが人間の可能性なのだと気づくようになった。

 人はどこから来て、何のためにいきるのか? 大きな問題です。少なくとも、孤独の苦しさに耐えられず、自分の生きているという存在を確かめたくて、だれかとのつながりを求めるというのは、現代社会でも全く同じであると思います。人の存在、それぞれが一条づつの光であり、命であり、“その交わりこそが今を生きている”ことなのではないかと私も思います。

桂華先生 活花
(診察室)

 ファウスト博士が魂を売り渡すことまでして得た、若さと楽しさでも消し去ることができなかったこの不安の中で、我々はこの世の人生の旅人として良くても悪くても旅を終わらせなくてはいけません。神が裁きと救済を与えているのではなく、やはり私たち人間たちの生身の心の中に、自分への裁きと救済が必要なのではないかと思うのです。そして自分自身を褒めてあげる自分でいなくてはいけないと思います。

 新年にあたり、私も自分自身の人生の旅を見つめなおしています。

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