私は両親から「お前は生まれて9ヶ月目に、かかりつけのお医者さんから、腸感冒でこの子はもう助からない。でも、もし生きる力があるなら、あの先生を紹介するから行ってみなさい、といわれ、行った先生に手厚く治療してもらい救われたんだ」と、幾度となく聞かさました。どうやら私は一度、逝きかけたようです。美しい川を何も覚えてはいませんが、、、
病には寿命に終止符をうつ病気と、治療すれば治癒するのにほおって置くと命を左右する病気があります。前者は現代の医学をもってしても、命を少しの時間ながらえることは可能でも完治させることはできない“悪い病気”、後者は、現代医学を持って立ち向かえば、命を救うことができる、言ってみれば“いい病気”です。
我々医者の仲間には、悪い病気に対しても、命の時間を長くさせようと日夜、延命治療に患者さんとともに頑張っている皆さんがいます。その熱意と努力には私も現場にいる1人として敬意を払います。逆に治療すればいい病気なのに、自暴自虐になってしまい、治療しない患者さんが時にいらっしゃいます。命を粗末にしているとしかいえません。とにかく治る病気は、頑張って積極的に治療することです。でも医者も患者も一緒になって、一生懸命治療して、ダメだとわかった時、どこまで延命治療するかはとても難しい問題であると思います。
人生は経験と感動の旅といわれますが、その旅を無事終わらせることができるようお手伝いすること、それが我々医者の最大の役目ではないかと思われてなりません。医者は神から授かった命の宿る体をメインテナンスする職人です。
まもなく訪れる新しい年が、輝かしくそして心温まる一年でありますように。
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人類がはじめてラスコー洞窟に壁画を書いてから、どれくらいの月日が流れたでしょうか? イタリアを訪れた時、中世の教会の大聖堂に大きなフレスコ画があったことを覚えています。幾多の戦乱と多くの人の往来を見つめてきたそのフレスコ画を前にすると、時の流れを忘れてしまいました。
新クリニックが2007年11月5日に移転オープンしました。クリニックの5メートルの壁に、日本のフレスコ画の第一人者である大野 彩(みさお)先生が、「ちあきの森」と題する大きなフレスコ画を描いてくださいました。大野先生は、宮崎 駿 監督の三鷹の森ジブリ美術館のフレスコ画をお描きになられた先生です。ちあきの森は、クリニックの待合室の森の中からイングリッシュガーデンを通って遠い山の頂を望んでいます。鹿がのぞいていたりして、まさにクリニックが癒しの森でありたいというテーマの表現です。
新クリニックでも、よくわかる脳神経外科と皆様のお気持ちに少しでも接することのできる“心”療を目指す、医療の水先案内人でありたいと思います。主治医であるとともに、いつも皆さんの傍にはべる主侍医でいます。
人間の体は、寿命という一瞬の間しかこの世にはいません。漆喰にかかれたフレスコ画は、悠久の呼吸をしています。我々も、命がある限り魂の宿るこの肉体の手入れをして、いい呼吸をして生きていこうではありませんか。。。!!
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最近、信州伊那谷の作家が、求めないという本を出版されました。伊那は私の実家の諏訪からもそう遠くはない場所でもあることから、早速、通し読みをしてみました。
ほんの3分でも求めないでごらん。
不思議なことが起るから。
求めない、すると何かが変わる。
求めない すると心が広くなる
求めない すると恐怖心がきえてゆく
求めない するとひととの調和が起こる
求めない すると待つことを知るようになる
今の世の中、私たちは皆、自分があの人にこうしてあげたのに私には何もしてくれない、私はこうしてきたのにどうしてこんな仕打ちを受けるのか等、日々、心の葛藤を抱きながら生きているように思います。人間ですから、仕方ないことであると思います。それで自然なのだと思います。イエス・キリストや仏様がされたという無償の愛の境地などには、到底たどりつけないのが我々凡人ですよね。また治療にいきづまってしまい苦しくなった時、とてもとても怖くなってしまいます。それも自然な人の気持ちですね。
でもこの作者が我々に語りかけてくれているのは、日常生活の中で苦しくなったとき、3回くらい深呼吸をして、頭と心の中を少しの間だけ空っぽにしてみてはということではないかと思います。一呼吸おいて何にも自分にも相手にも期待しないことで、ふっと楽になるよ、ということではないでしょうか。
私のクリニックはまもなく第一幕が閉演し、この11月5日からすぐ近くに移転いたします。この地に開業して満6年、いろいろなことがありました。私のクリニックを訪れてくださった方々は皆、よくなりたいとのお気持ちから、私にたくさん求められたと思います。その求めに私が充分お答えできなかった方もいっぱいおられたのではないかと、、、ひたすら反省です。私の知識、言動の至らなさ、スタッフの至らなさ以外、なにものでもありません。
でも皆さん、クリニックではどうぞたくさんのものをこれからも求めてください。体の病気を治すだけでなく、心の苦しさからの開放を目指して、いつでも求めて下さいね。及ばずながらでき得る限り、我々も皆さんに、心の手と古今東西で良いと考えられている医学を以っておこたえします。
第二幕の開演、私の持てる全てのものを発揮していきたいと思います。それでは新クリニックで、またお会いしましょう!
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昨今の新聞で86歳でも在宅診療に取り組んでおられる内科の先生が紹介されていました。高知県の山間の13集落の先生とのこと。本当に敬意を表したくなりました。私もあと40年、在宅医を頑張れるかな~~?と考えましたが、本当に大変なことだと思います。
さて年齢もさることながら、この先生の提唱されている、満足死という生き方、いや逝き方に、私もそのとおりのように思いました。満足死とは、満足な生活の延長に満足な死がある。それをどう実現するか? 患者、家族、支える医療者が満足する「三者よし」のいき方を目指すことと、おっしゃっておられました。
世の中には似たような意味で「尊厳死」というものがありますが、いまいちピンとこないものがありました。現在、自宅で最期のときをということになっていても、いよいよとなると病院へいってしまったり、三者よしという機会はに恵まれる(?)方は非常に少ないように思います。それぞれの患者さんに、ご家族に、そして医療者に、いろいろな事情があることはよくわかります。そうあってもいいと思います。そして現実には、病院でご最期を選択肢なしに迎えられる方も多くおられます。
三者よし、これがいい悪いではなく、このようなあり方もあることを、我々は常日頃、ひとつの考えとして、持っているべきであると思います。
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毎日、とても暑い日が続いていますね。今日は群馬県館林では40℃を突破し、観測史上でも類を見ない気温だったとか。少し前まで梅雨空が続き、夏の到来を待っていたのに、これだけ暑くなると、今度は涼しい秋の訪れが待たれるようになります。
時の経過は早く、今眼にまぶしいほどの木々の緑もあっという間に紅葉になってしまいます。最近お話した方の中に、命はどうせ終わってしまうのだから、早くこの世を去りたい、生きていることがめんどくさいとおっしゃった人がおられまいした。しかし、私は思います。木々だって冬の寒さを耐え、春先に花を咲かせ、こうして緑の葉全体でいっぱいの日光を受け取って、やがて落葉を迎える。木々は途中で葉を自ら落とすことはできません。今鳴いているセミだって、7年間地中でじっとその時を待って、地上に出てからは1週間精一杯鳴いて次の世界に旅立って生きます。虫だって自ら命を絶つことはできません。人間だけ、自らその命を終わらせる術を持っているようですが、何故でしょうか? 人間の優位性なのでしょうが、命を無駄にしてしまう終わらせ方だけはやってはいけないと思います。
インドなのか中国なのかはわかりませんが、人生を4つの時期に分け、青春・朱夏・白秋・玄冬と呼ぶ習慣があるようです。青春時代とは、日本でも余りにもよく使われる言葉ですが、他の3つはあまり耳にしませんよね。でも生きとしいけるものが通り過ぎていかなければならない時のようです。それならば朱夏には熱き心を燃やし、白秋には秋冷のすがすがしさを身に感じてみませんか?
今日はちょうど終戦記念日でした。私は右翼でも左翼でもありませんが、国のために旅立っていかれた320万人にも及ぶ方々の分まで、いま生かしてもらっている命の大切さを本当に考えてみたいと思います。
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~~~ ありのままの姿が一番大切なスタンス ~~~
患者さんから暑中見舞いに、高名な方の書をいただきました。勉強不足の私は作者名も知らず赤面の至りでしたが、私の心にス~と入ってきました。そこに書かれていた、どなたかの解説文をそのまま転記させていただきます。
トイレの芳香剤をレモンの香りにしたら、子供がレモンを指して「トイレのにおい」と言って食べられなくなったと聞きました。ハウス栽培で旬に関係なく野菜が食べられるようになったら、姿は一緒でも味気ない。今どき田舎の畑でもぎたてのキュウリをかじった人は、誰もが「あ、キュウリの味がする!」と言います。
人は朝日が昇るとともに起き、昼には体温も上昇して元気が出、夕方クールダウンし、夜あくびが出て寝るはずだった。煌々と電気をつけた二十四時間営業のコンビにに続々と吸い込まれていくお客さんたちは、覚醒のサイクルがずれてしまったのでしょう。
砂利道をコンクリートで固めたら、地表は熱をこもらせて、クーラーをつけなければ過ごせないほど夏が暑くなってしまった。室外 機でさらに空気を熱する悪循環。
月が空にあって、水が瓶にあるという本来ありのままの自然の姿を忘れずに。
なんと含蓄のある内容でしょう! 生体リズムから今の地球のEcoにまでそっと言及しているこの一句は、現代に生きる我々にも形を変えて通用するものですね。肩の力を抜いてありのままにいきてみましょう。そうすれば、血圧も上がらず、もっと軽快に過ごせるのかもしれません。
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むか~し むかし 上(かみ)のじいさまと下(しも)のじいさまが魚を採りにいったとな。下のじいさまの網にたくさんの魚がかかったのをうらやましく思った上のじいさまは、下のじいさまの網に木の枝をつめこんだぁ。この枝だって乾かせば蒔きになると喜んだ下のじいさまは、辛抱強く乾かして、斧で蒔を割ったところ、白い犬がでてきたと。下のじいさまとばあさまはシロと名ずけて大事にだ~いじに育てたぁ。ある日シロが、下のじいさまをぐいぐいとひっぱって山に行き、人の言葉で、ここほれ、ここ掘れ、ワンワンとほえたので、じいさまは言われるままに掘ってみると、大判小判がザックザク。これを聞いた、上のじいさまはたいそう、うらやましくシロを一晩貸せやと言って連れていき、・・・シロを殺してしまった。 ・・中略・・ 悲しみにくれた下のじいさまがシロの遺灰を枯れ木にまくと美しい花が満開に。通りかかったお殿様からた~~んとご褒美をもらったと。これを見た上のじいさまは、またまたうらやましくなり、この灰を盗んで殿様の前でおおいばりでまいてはみたが、灰は殿様の眼に入るばかりでいっこうに花は咲かず。 無礼者!! 上のじいさまは殿様からきつ~いお仕置きを受けたそうな。くわばらくわばら。
因果応報、カルマの法則、人を危めば穴二つ、自らまいた種は自ら摘まねばならぬ。私たちはこのような言葉をよく耳にします。一般的には、悪いことをすれば必ず自分の身に同じことが跳ね返ってくるから悪いことは慎みなさい、という意味と教えてもらっています。ところが、最近グッドカルマというものが存在することを聞きました。これは人にいいことを施せば、自分にもいいことがもどってくる、ということです。
こころの優しい人は、本当にほのぼのとしたいいお顔をされています。顔が輝いています。そのような方たちは、眉間にあるチャクラ、第三の眼が開いているとも聞きました。修行を積んだ方たちは、このチャクラが開くとは、脳下垂体、松果体が次々と開き、心の目で人を観て感じるとのことです。医学的にみると、眉間の奥、深さ約5-6センチのところに脳下垂体があり、その奥約5-6センチの場所に松果体があり、さらにその後ろ約5-6センチの位置にものを視る脳があります。しかもこれらの構造は眉間の中央から後ろに向って一直線上に存在しています。そしてどの部位の脳も美しい薄ピンク色に輝いています。身と心の修行の結果、額にある眼からものごとが観えるようになる、透視ができるようになるということと、この医学的事実が余りにも一致していることに私は脳外科医、脳科学者として、また心を癒すエンジェルセラピストとして驚きを隠せません。神が創られた最終産物は、かくも精巧で、かくも美しいものかと。
気持ちのいい下のじいさんに意地悪をしたり、ワンちゃんを虐め、挙句の果てにねたみの念から人の成功を真似したくて盗みをはたらき、最後に殿様に捕らえられた、、、この物語の作者は、ひょっとしたら我々凡人にグッドカルマとバッドカルマの存在を知らせるために、この世に下り立った、第三の眼が開いた聖人だったのではないかという気がしてなりません。
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イギリスに留学していた頃、スイスでの学会の折、足を伸ばしてヨーロッパ最高峰のユングフラウヨッホというアルプスの山に登山電車で(歩きではありませんでした!)登ったことがありました。途中には、アルプスのハイジがのびのびと駆け巡った舞台といわれるグリンデルバルトという山間となる高原がありました。季節が丁度、夏ということもあり、さわやかなアルプスの風が吹き抜ける中、高原の美しい草花が咲き誇っていました。ユングフラウヨッホの山頂を望む展望台の近くには、孤高の人の著者で、私と同郷の信州諏訪出身の作家、新田次郎氏の記念碑に偶然遭遇しました。すぐ近くには、ユングフラウヨッホのいただきから続く大氷河が、悠久の時を越えて横たわっていました。新田氏はこのアルプスの山頂と山あいの高原を渉猟する主人公にどんな思いをはせたのでしょう?
先日、テレビでいいお話をしていました。人生には良い時も悪い時もあります。良い時は、丁度、山の頂を目指して一生懸命に頑張って、競争して、頂上に登り立った時と同じ。なんともいえない爽快感、満足感、優越感を味わえるでしょう。でも一度頂点に立った後はそこを維持することが難しい。人生の良い時とは、山頂で記念写真を撮っている時のようなもの。次にくるのは必ず下り坂。でもね、はるか下界にある山間の谷もいいものです。澄んだ水が流れ、湖になり、気候も山頂よりは穏やかなせいか、キレイで可憐な花が咲いています。穏やかな人の笑顔だってあります。人生には一生懸命頑張らなければいけない時もありますが、一度満足したら後はゆったりとした時を楽しんで過ごすことが必要です。
私自身この言葉を聴いたとき、かつて大きな病院、大学の救急センターなどにいて、脳外科医の頂点を目指したいと大それた夢を描いていた時のことを思い出しました。そして渡英して当時の最先端の脳外科・脳科学を学んで来ました。でもその頂上から、現在では、日常診療で見られる患者さんの笑顔に穏やかで可憐な花を感じています。ユングフラウヨッホの山頂とハイジのグリンデルバルトに、新田次郎氏も山登りにかける登山家の情熱と人生を感じていたのではないかと思います。
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先日、スピリチュアル カウンセラーの江原啓之氏と直接お話しする機会がありました。 その時の会話の抜粋です。工藤曰く、「私は脳外科医として脳にメスを入れ、脳と心を研究する脳科学者でもあります。ある脳科学者が江原さんのことを、統合失調症と言ったとのことですが、私は脳科学者の1人として決してそうは思いません。私は人を癒すためには、魂を癒す江原さんのようなお立場の方と、借り物である肉体を治す我々医師が必要であると思います。是非、江原さんも頑張っていただきたいと思いますし、我々も頑張りたいと思いますのでパワーを頂きたいと思います。」江原氏は「そうおっしゃってくださる先生がいて有難いことです。工藤さんのような医師の方がいてくださると心強いです。先生は森公美子さんのことでも週刊誌などでコメントされておられる。ちゃんと読んでますよ。えらいでしょう!」後日、江原氏のhome pageの日記にも、医師が応援してくれて感激しましたとお書きになられていました。
我々人間は、この借り物の肉体とその中に宿る魂から成り立っていることは、いろいろなお考えの方がいらっしゃるとは思いますが、もはや疑う余地はないところだと思います。毎日のつらい悩みは尽きません。対人関係、仕事のこと、別れ。我々はこれらに対峙していかなくてはなりません。その時にその苦しい環境から一時しのぎに逃げてしまえば楽になります。これもひとつの方法だと思います。しかし何も内観することなく逃げれば、どこへ行ってもいつでも同じことを繰り返してしまいます。苦しいからもうやめる、悪いのは全て自分ではなくまわりだ、または自分だけが全て悪い、ではなんの成長もないと思います。何故苦しいのか、何故辛いのか、その中で何を自分は学んだのか、自分はどんな努力をどれだけやってきたのかをしっかり見極めたならば、その時はもはや逃げではなく卒業だと思います。
苦しい時、人を甘やかしたり、自分を悲劇のヒロインにすることは本当の愛ではなく、それは江原氏の言われる保身のための小我の愛。本当にその人のことを思い、その人に愛情を感じるならば、あえてきつく突き放す大我の愛が必要な時も必要なのではないかと私も思います。私は今、医師として主に医療を用いた方法で患者さんに接していますが、日常診療の中でもこの大我の愛、小我の愛を考えた接し方が人を癒すために大切であると気付きました。
そして我々は肉体を元気にするとともに魂のレベルもあげていかなくてはなりません。
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最近、私の外来におみえになられた患者さんがこんなことをおっしゃっておられました。 「家内は具合が悪くてあちこちの病院に行きました。でもどこの病院でも原因がわからず、先日○○大学病院にいきました。その先生は、その症状でテレビにも出ておられ、わらをもつかむ気持ちで受診しました。寒い思いをしながら2時間ほど待たされて入った診察室には、医学生さんたちが5~6人いました。先生は簡単な問診をしただけで、学生さんに向って、みんなよく見ておけ、これが典型的な難病の○○○病だ!と大きな声でいい、10分後には、次の患者さんが待っていますので、と言って終わりでした。 そのくらいの診察でほんとに全てがわかってしまうのかも疑問でしたが、それ以上に家内はその先生の言い放ち方にショックを受けたようでした。案の定、それ以来家内は沢山の抗うつ剤を飲まなくてはならないほどのうつになっています。」
医学部は我々を教育し育ててくれた学び舎です。そして大学病院には、教育以外に臨床と研究という課せられた使命があります。臨床とは、如何にいい手術、いい診断・内服治療ができるか患者さんを診ながら、新しい治療方法をあみ出す場です。大学病院では普通の病院には高価で導入が難しい高性能の診断・治療機器がそろっています。研究とは主に実験動物を使って、薬や治療手段の基礎的なデータを集めるものです。実験機器の面でも大学は、最先端のものがそろっており、有用な場となりえます。そこにいる医師は、診療と学生教育の間をぬって、クタクタになりながら研究論文をいくつも書かなくてはなりません。
いかにいい機器があっても、大学病院は残念ながらやはり経験の浅い医師が多く、また博士号の取得のために実験・研究に主軸をおいてしまう医師が多い傾向がいなめません。しかし私はこの患者さんの話を伺って何よりも思ったことは、ハード面よりソフト面、つまり最も大切にしなければならない、そこにいる患者とそこにいる医師の心の温かさの交流が忘れられているのではないかということでした。
風邪をひいても大学病院! つい最近まで、今もそうかもしれませんが、こんな風潮があったような気がします。我々受診する側も、大学病院の役割をよく考え、理解しておきたいと思います。
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新年を迎えたばかりと思っておりましたのに、いつの間にか気がつけば寒梅が綺麗に花を咲かせてくれていました。毎週在宅診療で伺うお宅への道すがら、朝のすがすがしい空気の中で、今年もこの時がきたよ、と私に語りかけてくれているようでした。この寒梅を見ると、その患者さんとの10数年来のことが頭に浮かんできます。
血圧が高く頭が重いとおっしゃって初めて、労災病院の私の外来におみえになられた日。内服薬が効を奏して楽になったと笑顔を見せて通院されていた日。意識を失って搬送され、頭の緊急手術を行った日。その後、半身不随になられてもまた私のクリニックまで来院され、「この日を待っていたんだ。」とおっしゃった日。そして今は違うご病気で寝たきりになられ在宅診療を受けていらっしゃる。おそらく、これからもこの患者さんとは長く付き合うことになると思います。
時を経て、私たちは歳をとります。最近では平均寿命が延び、昔の60歳、70歳は今の70歳、80歳といわれるようになりました。しかし肉体年齢は伸びても、精神年齢や“常識年齢"はむしろ幼若化しているように思えてなりません。自転車で平気に右側を走る大人。相手を思いやる言動を忘れ家庭を崩壊させてしまう大人。通院すれば安いのに往診料は高いと主張するわがままな大人。近隣の方の往診時には駐車に抗議しながら自分の家族の往診時には道のどこに駐車してもいいと言う身勝手な大人。
我々は歳をとって何を後進に残していかなくてはならないのでしょうか?一番大切なことは、社会生活をしていく上での常識ではないかと思います。大人が乱れていては、それを見ている子供が、「なんだ、これでいいのだ!」と思ってしまいます。今の社会問題となっているいじめや登校拒否も、われわれ大人社会の行動が原因になって子供の心に歪みを生じさせているのではないでしょうか? たおやかに歳をとること、それは威厳のある頑固親父と鬼ばばの裏腹なのかもしれません。
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皆様のアンケートから、お蔭様で「患者が決めた!いい病院ランキング2007年度版」(オリコン・エンタテインメント発行) 「頭痛」の専門家として、関東地区第5位にランキングさせていただきました。
開院以来の5年間分の通知表をいただいた気持ちでとても光栄に思います。
深く感謝致しますとともに、今後とも一歩一歩精進して参ります。ありがとうございました。
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新年を迎えました! 皆さんにとって、今年も素晴らしい年になりますように。。。
時間はどんどんと過ぎてしまいます。でも年末年始は何かこの時の流れが一瞬止まったように私には思われました。今年は何をしよう。どんな年にしようと私なりに考えました。そしてこんなことをしたい、あれも完成させよう。これにトライしてみようと、いろいろと心に浮かんできました。
何かをやってみたいと思ったとき、強く念ずることが必要といわれています。しかし念ずるだけでなく、私たちは実現させるための方法をじっくりと練らなくてはならないと思います。今こそ、夢の実現のために、その夢の胎動を感じながら現実の方法を模索してみようではありませんか!!!
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