院長コラム

2003年


| コラムトップ | 2004年

Vol.7 2003/12/15
想うこと、偲ぶこと

 私に医師としての、また指導者としての在り方を身をもってお教えくださった師匠が、またお1人先日逝かれました。お通夜や告別式にも、是非出席したかったのですが、私には毎日の診療がありどうしても出席できませんでした。

 今年の4月には、私が労災病院時代に徹夜でくも膜下出血の手術をした患者さんが、自宅近くでひき逃げ事故にあいお亡くなりになりました。2年前には、私を子供の頃からとっても可愛がってくれた伯父が癌で他界しました。やはりいずれも、葬儀の席には日々の診療があって行けませんでした。

 逝った方を悼むためのセレモニーをとりおこなうことは、歴史上でも明らかなことです。これは決して否定されるべきものではありません。しかし、最近では式の大きさや、華々しさを追い求めるものもなきにしもあらずです。式は故人を偲ぶために簡素でもよいのではないかと思います。またその方のご冥福をお祈りするためには、たとえ式に参列できなくても、いつも心の中で静かにその方のことを想いだし偲ぶことにより、故人は天国で喜んでいてくださるのではないかと思います。

 年の瀬の今、私は今年ご逝去された何人もの方たちを静かに偲びたいと思います。

Vol.6 2003/11/15
開院3年目にあたり

 平成15年11月14日で当院も開院してから満2年が経過しました。勤務時代とは異なる意味で、この2年間、多くの患者さんと接することができたことに、ひとしおの感慨を覚えます。

 開院記念日の日経新聞で、作詞・作曲家の小椋佳氏がお書きになった、新時代に“好き、且つ得意"なもの獲得することは、どなたにとっても回避し得ない困難な挑みとなる、という記事を目にしました。そして、「シンボウ」という言葉には、辛抱、信望、心房(健康を維持する心臓の一部)、心棒(自分の価値観の核心に照らし行動に確たる鎖をもつこと)、深謀(好きになり得意になるプロセスと、その後の計画・展望をもつこと)などの意味があり、好き、且つ得意なものを得るために、氏自身、ひとつひとつの「シンボウ」を備えていく努力をしていきたい、という趣旨を綴っていました。

 全く小椋氏に同感ですが、私はさらにもう一つ、“心望"という言葉をつけ加えたいと思います。忙しさ、煩雑な日常に埋没しそうになる時、過ぎ行く日常に流されずに、自分はこういうものを求めたいのだという、心の向く処を常に明確にしておくこと。

 初心忘れべからずと言いますが、自分が作り上げたい夢へのナビゲーターを失った時、人は迷走がはじまりと退化するのだと思います。開業医だからできることは何なのか、自分の“心望"を胸に、私も小椋氏の言う5つの「シンボウ」を備える努力を忘れずに、3年目も歩んでいきたいと思います。

Vol.17 2004/10/15
主侍医でいること

 現在の医療制度では、病気になって入院してもその病院には2~3ヶ月しか入院することができません。私はこれまでに何例もの脳手術を行ってきました。術後よくなって退院できた方は別として、不幸にも意識が戻らなかった方々は3ヶ月たつと、他の病院に転院しなくてはなりませんでした。

 これは主治医にとってもつらいことです。その後、その患者さんがどうなってしまったのか、ほとんどの場合はわかりません。おそらく転院先の病院でも3ヵ月後には同じことが繰り返されていたのではないかと思います。きっとご家族の皆さんは行く先々の病院で、いつもその場限りの説明を受けては転院を繰り返す、心配な日々を送られていたと思います。

 病院には病を治す主治医がいます。しかし、その病院をひと度退院した後の世界には、患者さんや家族の味方になり常に支えになってくれる医者が不在です。病気になる前から常に健康状態を把握し、いつもその患者さんや家族の近くにいて気軽にコミュニケーションを持てる医師が絶対必要であると思います。

 いままで言われてきたホームドクターはある程度これに近いものであったと思われます。しかしこれからの時代には、発病時に病院を紹介するだけではなく、病気になる前も、入院後の治療を受ける際も、また転院しなければいけない時も、常に患者さんと家族のかたわらに侍(はべ)って、まるで顧問弁護士のように支える主“侍”医が、我々開業医には求められると思います。

Vol.4 2003/08/22
言葉のパワー

小諸なる古城のほとり、雲白く遊子かなしむ。

みどりなす はこべはもえず、 若草も敷くによしなし、、、、

 

 島崎藤村の有名な千曲川旅情の歌です。流れ行く川面に、躍動していた自らの青春を重ねあわせていたのでしょうか? 肉体は歳月とともに変化し、時に薬やメスでの治療が必要になります。ひとの心は、もっと微妙に変化し続け、言葉により傷つき癒されます。医者の一言がどれほど患者さんの心と体を左右しているか、今に言われ始めたことではありません。最近では心ないドクターの言動が患者さんを傷つける「ドクハラ」なる言葉もみられます。

 私は長年、病んだ脳にメスを入れてきた外科医です。くも膜下出血や脳腫瘍の患者さんが、術後、笑って退院されたときの喜びは忘れられません。そして今、心の病でふさいでいた方が数ヵ月の治療後に笑顔で診察室を出て行かれる時、同じ嬉しさを感じています。いつも来院されている患者さんが、パッタリこなくなると心配してしまいます。私もその患者さんから、パワーをもらっていたと気づく時です。

 薬やメスだけでなく、言葉による治療に重きをおくのは心療内科や神経科ですが、私は言葉を大切にした“心療脳神経外科"なるものもあってもいいかなと思います。

Vol.3 2003/07/03
自転車のマナー

 最近、通勤や往診時、歩道を歩いているときに、とても危険な思いをすることがあります。 それはマナーの悪い自転車による危険性です。

 道の右側を走る。夜間、無灯火で走る。携帯電話をかけながら走る。 路地から左右も見ないで走り出してくる。 右側を走っていたら、交差点で規則を守って左側を走ってきた自転車と鉢合わせをして衝突するのはあたりまえです。 夜ライトをつけずに、歩道を自転車が走っていたら、歩行者と接触してケガをするのもうなずけます。 小さな道から左右も確認しないで飛び出してきたら、簡単に車にはねられてしまいます。

 問題はこのような危険な自転車の乗り方を、平然として、男性・女性をとわずに大人がやってしまっていることだと思います。これでは高校生、中学生、小学生がルールを守るわけがありません。

 小学生の頃学校で開かれた安全教室で、お巡りさんから「自転車は左側通行、夜は必ず灯りをつけて乗りましょう!」と教わり、校庭に描かれた模擬道路で走る練習をしたことを覚えています。 自転車のマナーが大きく乱れている現代でも、大人も子供も参加する“自転車"教室を、学校や区・自治体が中心になって、まぁ? なぁ? とお茶を濁さず、熱心に行うべきではないかと思います。

 あなたの自転車マナーはいかがでしょうか?

Vol.2 2003/05/30
世界に一つだけの花

 テレビから流れている曲にふと耳が反応しました。

 

♪♪ 花屋の店さきにならんだ いろいろな花を見ていた ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね  この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツの中 ほこらしげに しゃんと胸をはっている それなのにぼくら人間は どうしてこうもくらべたがる 一人一人ちがうのにその中で 一番になりたがる そうさぼくらは 世界に一つだけの花 一人一人ちがう たねをもつ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい。。。。。 小さい花や大きい花 一つとして同じものはないから ナンバーワンにならなくてもいい もともと 特別なオンリーワン ♪♪

 

 人気グループSMAPの最近のヒット曲です。とてもいい詞だと思いました。我々の生きる現代が競争社会と言われて久しいですね。それは大人にとっても子供にとっても。私自身も振り返れば受験時代、勤務医時代を通じて、自分の意思にかかわらず競争にドップリつかってきたように思えてなりません。今でも身の回りには、お受験とか出世争いがあり、地球規模では多国間の戦争があります。変えることの出来ない現実を変えようとしても無理があります。心が疲れたとき、“世界に一つだけの花”である自分に水をあげてみてはいかがでしょうか?

Vol.1 2003/05/01
森でありたい。

 初めまして。院長の工藤です。このページでは、日々の中で感じたあれこれを、思いつくままに書いていこうと思います。今回は、初対面のごあいさつを兼ねて、私の目指す医療についてお話しします。といっても、そんな堅い話をする気はありませんので、のんびりお読みください。

 私は、昔日本で大ヒットした海外ドラマ「ベン・ケーシー」や、手塚治虫さんのマンガ「ブラック・ジャック」にあこがれて、脳外科医を目指しました。どちらも人間的で腕の立つ脳外科医の話。とてもかっこよかったんですよ。

 しかし医者になってみると、理想とは裏腹、医療現場の矛盾が、だんだんと目に付いてきたのです。その最たるものが、病気を治しに行ったのに、帰ってくると逆に具合が悪くなることが多い病院の現実です。「3時間待ちの3分診療」と言われるように、受診前に延々と待たされた上に診療が終わっても会計だ薬だとまた待たされる。しかも医師やナース、受付スタッフの対応が機械的で、患者さんにイライラがつのり不快な気持ちになる。病院のシステムにも雰囲気にも大いに問題があると痛感しました。また大きな病院では、人間が何か「パーツの集まり」のように診療される傾向があります。医療の進化は医療の細分化でもあります。それで助かる命もたくさんありますから、一概に悪いとは言へません。けれど、細分化が進むと「脳のことはわかるけど、ほかの部分はわからない」といったことが起きてしまいます。この患者さんの腸はこの医者、心臓はこの医者と、何人もの専門医が治療するけど、ひとりの人間としての患者さん全体を診る医師がいなくなってしまうのです。

 これでいいんだろうか。病気を治すって、ただ「悪い部分」そこだけを治すことなのか。心を含めた人間全体に対して施す医療というものが、本当は必要なのではないか。たとえば病院を出たときに、「ああ、来て良かった。あの先生や看護師さんに会えて、なんだか気持ちが楽になった。病気も軽くなったみたいだ」と思わせてあげられる雰囲気も重要ではないか。そう考えたのが、このクリニックを開くきっかけでした。実際、人間とは不思議なものです。体はどこも悪くなくても、心に不安があると頭が痛くなったりする。そういう人にただ頭痛薬を渡しても、決して治りません。心と体は、ひとつのハーモニーを奏でていますから、片方だけを診てもだめなのです。体を治し、心を癒さないと、健康にはならないんです。

 だからこのクリニックでは、アロマを香らせたりして、患者さんにまず心を落ち着けてもらえるよう心がけています。ここは病院でなく癒しの場、イメージとしては「森」でありたいのです。森に行くと、人は五感全体により癒されます。目に心地よい緑の葉の輝き。体にしみわたるようなかぐわしい香り。泉の水の美味しさ。木々のざわめき。木肌に触れれば、ほのかな温かさを感じます。患者さんの心と身体の奥底から、自ら治ろうとするパワーを引き出す、そんな「森」のような環境をつくりたいと考えています。試行錯誤の連続でしょうが、患者さんに優しい本来の医療に近づけばと願っています。

| コラムトップ | 2004年