院長コラム

2006年


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Vol.43 2006/12/15
普通でいられること

 師走も半分が過ぎました。朝夕の冷気に“冴え"を感じます。年賀状の受付、クリスマス、年末年始の準備と街はあわただしいですね。日本は狭い国ながら、本当に季節がたくさん詰まっています。

 青春、朱夏、白秋そして玄冬、移り行く時と同じように私たちの人生にも季節があるようです。気がつくと、どんどん年をとっている自分に気がつきます。毎日毎日、陽は昇りいつの間にか暮れていきます。それもものすごい早さです。自分のまわりのものごとはほとんど変わらず普通のまま、と思うこともよくあります。

 最近、この“普通のままでいること"の難しさ、大変さを感じます。体が普通でいること、心が普通でいられること、家族が普通であること、職場が普通のままであること、どれをとっても、“普通でいる"ことができないが故に、我々の悩みが生じていますね。心身の健康は言わずもがな日々の摂生、社会の平穏は人々の常識的な言動によって成り立っていると思います。摂生が保たれないと病気になり、常識のバランスにずれが生じた時、個人でも、家庭でも、職場でも、世界でも平和が乱れます。

 目をそむけたくなるような現実社会の中で、我々はこの“普通でいられること"の大切さと有難さを再認識して、背伸びすることなく、素直に、時の流れを感じながら生きなければならないと思います。同じ生きるならば、この生きるという旅路からの学びを一つでも多く得て“生きたい"と思いませんか?

 皆様、よいお年をお迎えください。。。

Vol.42 2006/11/15
友を偲ぶ 開院6年目の記念日に。。

 今頃の英国バーミンガムの野原は褐色に一面がそまり、明るいガーデニングをイメージさせるイギリスも、冬の始まりは実に寒々しいものです。私は3年間、イギリスの心臓(Heart of England)と呼ばれるこの町で脳外科を学びました。

 帰国して11年目の昨日、ともに学び、共に外国生活の厳しさと楽しさを分かち合った日本人の親友の訃報が届きました。亡くなるまである大学の教授をされて、最もパワーに満ちていたはずの49歳でした。胃がんを宣告されながら半年以上、仕事に、家庭生活に最後の魂の炎を燃やされたそうです。

 帰国する年の1995年の夏には、Golf発祥の地スコットランドのセント・アンドリュース Old コースで一緒にプレーしました。「1番ホールのティー・グラウンドに立ったとき、魂が震えた」と言った彼の声、苦しい仕事の中でも笑顔を絶やさなかった大きな目の彼の顔が今も偲ばれます。

 今日11月14日で、我がクリニックは6年目に入りました。これからも、自分の持てるエネルギーを精一杯、患者さんに発していきたいと思っています。彼の無念だったにちがいない分まで私は頑張ります。彼の冥福を祈るとともに、この世の旅の終わりに、心からご苦労様!と申しあげたいと思います。

Vol.41 2006/10/15
病を全うすること

 先日、あるスピリチュアル(霊性)な方とお話しする機会がありました。その方に我々は病気から何を学ぶべきか、治ったからといってそれでおしまいでいいのか、我々はその病気を全うしなければいけないのです。先生、この意味は深いのです、と言われました。病気を通して我々は何を学ぶべきなのでしょうか?

 数年前にお葉書で私にエールをお贈りくださった(院長コラム第9章に掲載)京都の大徳寺大仙院の尾関宗園住職の寄稿に、今こそ出発点と称する一編の詞がありました。『人生とは毎日が訓練である。私自身の訓練の場である。失敗もできる訓練の場である。生きていることを喜ぶ訓練の場である。今この幸せを喜ぶこともなく、いつどこで幸せになれるのか。この喜びをもとに全力で進めよう。私自身の将来は、今この瞬間にある。今ここで頑張らずに、いつ頑張る。』とありました。

 またスピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏が、その著書の中で『私たちはこの世を生きる旅人です。旅の目的は、さまざまな経験を通して感動を得ることにあります。感動とは、心が感じ動くこと、喜怒哀楽の感情すべてです。私たちの魂は、楽しいことも、つらいことも含めた新たな経験や感動を日々味わうことで、少しずつ磨かれ、成長していくのです。そして人はみな、現世で得た経験と感動をもって、いつの日か魂の故郷に帰っていきます。この世でそれぞれ与えられた旅の時間は有限です。だからこそ、今、目の前にある一日を、恐れることなく、前向きに生きることが大切なのです。幸せは、遠い未来にあるのではありません。「今」この時にあるのです。』とお書きになられていることを思い出しました。

 お立場の違う、このお二人の意図されていることが全く同じであることに私は大きな感動を受けました。今も病に伏している方は、今まさにその一瞬を生きることこそが幸せを喜ぶ訓練の場なのかもしれません、そして大病から復帰された方は、喉もと過ぎれば何とかではなく、その病気を通してどんな経験と喜怒哀楽の情を抱いたかを忘れず持ち続けることが大切であると思います。これこそが神から与えられた魂の着物である、肉体に与えられた病を全うすることに通じるものであると確信します。

Vol.40 2006/09/15
生き抜くことの苦しさ

 新聞で、今ヒット上映中のゲド戦記の広告をみました。私はまだ映画館に行っていませんが、物語の中の主人公の言葉を通して、原作者ル・グウイン氏からのメッセージが届いたような気がしました。

 

死ぬことがわかっているから命は大切なんだ!

アレンが怖がってるのは死ぬことじゃないわ、

生きることを怖がっているのよ!

死んでもいいとか、永遠に死にたくないとか、

そんなのどっちでも同じだわ!

ひとつしかない命を生きるのが怖いだけよ!

 

 先日、私の患者さんのご家族が自殺しました。ご自身の病気、ご兄弟のご病気、認知症のお母様の介護などいくつもの苦しさをかかえておられました。私とお話をする時、いつもご自分のこと以上にご家族のことを心配され、その度に生きることのつらさ、どうして私だけがこんなに苦しまなければいけないのでしょう?と、おっしゃっておられました。

 私たちは毎日苦しさと裏腹に生きているのかもしれません。その人でなければ、本人の本当の苦しさなどは分からないと思います。人は魂を磨くためにこの世に生を受け、肉体という乗り物に魂がのっているといわれます。それぞれの環境で、それぞれの魂がいろいろの経験をするためだとしても、生身の私たちに本当に耐えれない苦しさというものが襲いかかってきたとき、どうしたらいいのでしょうか?

 私自身もその解決方法などわかりません。でも1つだけ解かるような気がします。自殺してしまえばその苦しさが解決され、苦しみから逃れられるかというと、そうではないと思います。その時の苦しい気持ち、死に向かうときの恐怖も永久に続いてしまうのではないでしょうか?

 生きて生きて、生き抜いて、苦しんで苦しんで苦しみぬいて、やがて借り物の肉体が壊れて返す時が来た時、私たちの魂は初めてこの世で学んだことの意味が分かるのしょう。ひとつしかない命を生き抜くことは、本当に怖くてつらいです。

 

夕闇せ~まる雲の上♪ いつ~も一羽で飛んでいる♪♪

 

街角から聞こえるゲド戦記のテーマソングが、私の心に優しく響きます。逝ってしまった方々のご冥福を心からお祈りします。

Vol.39 2006/08/15
何を求めて何を自分たちは蓄えているのでしょう?

 私たちは毎日毎日それぞれの場所で生きています。それぞれの職をもって活動しています。主婦(夫?)の方は、家の中のことで精一杯。目前の試験のために懸命に勉強している学生、毎日を楽しく過ごしてバイトをしている学生さまざまです。自分たちは生きるために働いている、お金を貯めている、勉強している、それぞれの目的に向って頑張っていることは素晴らしいことだと思います。 しかし、物やお金は、自分の内面にマッチしてこそ輝くもの、価値を発揮するのではないかと思います。私たちは、この内面の充実を図るために、勉強して働いてお金を得ているという実感を持っていないと、浮いたお金、気持ちの落ち着かない物質世界に落ち込み、生きる実感までも失ってしまうのではないかと思います。 お金のみ、物質のみは、心と感性をも破壊してしまうように思えてなりません。

私たちはお金、物を貯めるのみではなく、心の豊かさを蓄えて生きたいものです。

Vol.38 2006/07/15
予期不安と現実の不安

 私たちの心の中は、いつもさまざまな心配ごとに満ち溢れています。仕事の不安、ご家族の不安、恋愛の不安など、いろいろありますね。その度に心が揺れ、押しつぶされそうな気持ちになってしまいます。苦しくて苦しくて、悲しくて悲しくて、毎日がとても憂うつです。

 私たちを襲ってくる不安には、まだおきていない遠い先の不安(予期不安)と、今すでに起きてしまっている現実の中での不安があるように思えます。どちらの不安でも、一度不安になると、こうなったらどうしよう、ああなったらどうなってしまうのかと考えてしまい、頭の中が堂々巡りとなり混乱し、結局、更に大きな不安になってしまいます。

 私自身もこのところ、仕事・プライベートにわたり、この不安なるものに重くつぶされそうになっていました。この不安から抜け出すのはとても苦しかったです。まだ完全には抜け出せていないかもしれません。でもそのとき思ったことは、まだおきてもいない不安を“想像"して、自分を暗くし、へこませてなんのためになるのか?!ということでした。自分が不安で暗い顔をしていては、自分の周囲にいてくださる人々も暗くしてしまう。スマイルでいなくてはと思いました。

 今おきているトラブルをどのように解決したらいいのかも十分にわからないのが、我々凡人の常なる苦しみですが、その上にさらに“想像"にほかならない予期不安に怯えていては、とても私たちのメンタルはもちません。今おきている現実の不安だけを解決するように、自分の意識を変えなければならないと思います。“想像"の産物を追いかけて、疲れ果てるならば、そのエネルギーで現実の諸問題の解決に当ててみようと思います。今を生きるとは、まさにこのことではないかと強く思います。

 不安は生きている限り、きっと逃れられない心の鏡であると思います。その日の気温、湿度によって鏡はすぐ曇ってしまいます。しかし曇った鏡はみがいてあげれば、またきれいになり、もっと輝きます。私たちは、今そこにある不安に対してのみ目を向けて対峙していくべきではないでしょうか?

Vol.37 2006/06/15
森のパワー

 私は信州の育ちのせいか、海よりも森や林がどちらかというと好きです。私の生まれた諏訪は諏訪湖の周辺まで山河がせまっており、湖と森との間の狭い平地部に家々があるという環境でした。諏訪大社も大きな木に囲まれています。

 小学生のころ、霧が峰でスキーリフトを経営していた母方の伯父が 春にはワラビとり、秋にはきのこ狩りに山に連れて行ってくれました。森の中で採りたてのきのこを、豚汁にして食べた味は最高であり、腹の底から熱くなりました。

 森からは沢山のエネルギーが発せられています。フレッシュな空気、森の香りが嗅覚をくすぐり、目には鮮やかなグリーンのカラーが映ります。都会に疲れた時、森深く入っていくと我々は、なんともいえない生命力をもらいます。まさに森のパワーであると思います。

 体の体調を崩した時、そして心を病んだとき、森に行ってみることをお勧めします。

Vol.36 2006/05/15
40年ぶりの顔

 先日、小学校の同級会があり長野市に行ってきました。僕は幼稚園と小学校2年生の半ばまで長野に住んでいました。今回はその1年半しかいなかった小学校時代の親友(悪友?)から40年の沈黙を破っての突然メールがきて、参加することになりました。

 当日は担任の先生ご夫妻と13人が集まりました。小学校の入学式の写真を見て予習をしていったせいか、逢うとあの日々の顔が懐かしく蘇ってきました。皆さん職業は違っても、あのころへ心が飛んでいってしまいました。

 あのころの僕は、やんちゃでわんぱくなガキ大将だったとよく言われましたが、長野でのあの1年半は思いっきりがんばりまくっていたと、素直にほめてあげたいと思っています。そして、純粋にパワーをはじき合っていた悪友とまた再会して得たものは、再び原点を見つめなおしてみることの大切さであったと思います。

 40年なんか、あっというまですね!

Vol.35 2006/04/15
内観の時

 クリニックには多くの方がさまざまな悩みを抱えてご来院になられます。ある時にはご高齢のご主人が車椅子の奥様を押して、遠いところから2週間に1回来院されます。またある時には、診察室に入るとともにため込んでいた涙をボロボロと流される方がおられます。皆さん頭痛・不眠・腰痛等の症状を訴えられてのご来院ですが、それ以上に、長い間誰にも話せず、1人で悶々と苦しんでこられたことをひしひしと感じます。私はこのような方々に接した時、その症状を取りたくクリニックにおみえになられただけでなく、できることならば一つでも二つでも、そのような苦しみの重石を取り除けるよう、及ばずながら手を差しのべたくなります。

 私たちは毎日それぞれの生活の中で、さまざまな経験をしてその中にいろいろな喜怒哀楽の情を感じます。自分の意思ではどうにもならない病気以外の体の症状は、感情の表れとして体が訴えている言葉であると感じます。医師がこの言葉を理解できないと、薬の量だけが増す治療になるのではないかと考えます。

 感情の乱れをじっと鎮めて、自分の内なる状態を観つめる時をもつことが必要であると強く思います。私のクリニック、私に診察室は、そのような場所でありたいといつも思っています。私自身から発するエネルギーがもしあるとすれば、それを少しでも感じて元気になってくださる方が一人でもいてくださればよいと願っています。私自身、このクリニックへ訪れる方々とのふれ合いの中から元気をいただいています。

 お帰りなさい、そして日常の世界へ行ってらっしゃい、私のクリニックはこのような会話ができる癒しの場をこれからも目指していきたいと思います。

Vol.34 2006/03/15
沈丁花(ぢんちょうげ)

 梅の花が終わり、桜が今年も見事な花を咲かせています。毎日往診をしながら春を実感しています。梅は厳しい寒さの中から春を予感させるようにつぼみを膨らませ、雪をかぶった黒い枝から薄紅色の花を咲かせます。桜はその時々の人々の心に感動を吹き込んできたように今を生き抜く我々にも生きている美しさを教えてくれています。はかなさと美しさは裏腹なのでしょうか?

 ところで桜咲くこの時期には、道端に目を向けるともう一つ私の好きな花、沈丁花が咲いています。静かに、控えめに咲いています。そっと鼻を近づけると、心を落ち着かせるアロマを発しています。私には梅と桜とこの沈丁花が、それぞれ我々に何かを語りかけているように思えてなりません。可憐な沈丁花にも強く惹かれるのは私だけでしょうか?

 

Vol.33 2006/02/15
インフォームドコンセントは説明と同意だけではない

 知り合いの方が病気になられて、ご家族とともに、あちこちの先生にセカンドオピニオンを求めに行かれた時のことを話してくださいました。何箇所かに行ったそうですが、そのお一人は自由診療の開業医の先生で、検査がこの間隔で必要な意味、この薬が必要な理由、こうなったら早めにこうした方がよい、これから起る可能性のある状態等、三十分以上も話してくださりとても安心したとのことでした。次のお一人はとても高名な大学の現役教授であり、一時間近くも遅刻した上に、事情を話し手持ちの写真を見せたところ、あぁ~、これは私のところではすることはなにもない。何しに来たの?と、学生や研修医の前で言ったそうです。

 医療界でインフォームドコンセントという言葉が使われはじめてから、二十年余がたちます。説明と同意と訳されました。特に危険度が高い種々の医療行為を行う前に医療者側がその内容を説明して、患者側がそれを同意し押印した時にのみ医療行為を行えるという意味でした。もともとこの制度は医療訴訟が多い欧米で始まった契約内容ですが、今の日本で、単に説明しました、印鑑をつきました、同意書をもらいましたということだけで十分でしょうか? 医療内容に詳しくない一般の方に、幾つかの選択肢を並べ、この中から一番良い医療を選んでくださいと説明しても、同意を得るには無理があると思います。

 医療にはいつも危険が伴います。結果もやってみなければ分からないところがあります。結果がよくなかったとき、型どおりの書面・捺印のみでどちらが正しかったかなどと争っても何か寂しいものです。説明・同意・捺印以外の何かが欠けていたのではないでしょうか?

 両者が挨拶をし、目を見て話し、そして心と心の通う患者と医師の信頼関係を築くことこそが、究極のインフォームドコンセントであると考えます。

Vol.32 2006/01/15
新しい年2006が明けました。

 クリニックではスタッフの1人が、深い響きを持つ偉人の訓示をミーティングで紹介してくれました。

 

心訓  福沢諭吉翁

一. 世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つと云う事です。

一. 世の中で一番みじめな事は、人間として教養のないことです。

一. 世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。

一. 世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。

一. 世の中で一番尊いことは、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。

一. 世の中で一番美しいことは、すべての事に愛情をもつ事です。

一. 世の中で一番悲しいことは、うそをつくことです。

 

楽しいこと、 立派なこと、みじめなこと、、、、 ここにあげられているものは人の心の動きの全てではないでしょうか。そしてその後に続く事全部は当たり前のことですが、一つ一つとても難しいことです。

諭吉翁のこの心訓を、私を含め、我がクリニックの今年一年の戒めとしたいと思います。

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